6.代行技術と再生医療 6.1 人工聴覚 6.1.1聴神経を直接刺激する「人工内耳」  中枢から運動器系に向かう「遠心性神経 (efferent nerves)」が機能しなくなっても、残存する筋や神経を刺激することで運動機能を発現させることができる。神経や筋への電気刺激によって運動機能の回復を行う方法は、一般に、機能的電気刺激(FES: Functional Electrical Stimulation)と呼ばれる。主に、四肢麻痺患者の機能回復を目的として研究されてきた方法である。一方、感覚受容器が働かなくなってもそこから中枢に向かう「求心性神経 (afferent nerves)」を刺激することにより、感覚情報を脳に送ることができる。  残存する聴覚神経に電気刺激を与え情報を中枢に伝達するFESを「人工聴覚」と呼ぶ。人工聴覚では、大脳皮質の聴覚領野を電極マトリクスで電気刺激する方法もあったが、内耳の有毛細胞に繋がる求心性神経を電気刺激する「人工内耳」が最も成功したFESの例である。  今では人工内耳は治療法も確立し、保険適用にもなっているが、ここでは、人工内耳の起源と原理について述べ、筆者(伊福部)がスタンフォード大学にいた頃に経験した、主に1980年代の人工内耳の黎明期について述べたい。   (1)人工内耳の歴史(文献6.2.1)  聴覚に電気刺激を与えて何かを感じることに気がついた最初の人は、電池を発明したイタリアのボルタ(Alessandro Volta, 1745-1827)であるといわれている。それからしばらくして、1966年に米国スタンフォード大学のシモンズ(Francis Blair Simmons, 1930-1998)が患者の内耳につながる第8神経に6個の電極を挿入して電気刺激を与え、それを患者がどのように知覚したかを詳細に報告している。それ以来、聴神経電気刺激の本格的な研究がなされ、人工内耳の起源は1966年のシモンズの研究からであるとされている(文献6.2.2)。  約16,000個もある有毛細胞(実際には約800個の外有毛細胞)につながる聴神経をたかだか10数個ほどの電極で刺激するのであるから、伝達される情報量は著しく制約される。それでも、1970年代後半の頃から、人工内耳をしばらく使用していると患者によっては電気刺激が音声として聞こえてくるという報告が次々と現れた。聴覚障害者が唇の微妙な動きや、手に伝わってくるわずかな振動などを頼りにして言葉をある程度理解することを考えると、人工内耳を介して得られる少ない情報でも聴覚はそれを言葉の理解に利用するようになることは容易に想像された。   (2)刺激パルスにより知覚される感覚強度とピッチ  1980年代の初めころは、刺激電極の構造と音の知覚の関係について多くの報告がなされた。まず、1個の電極による刺激電流の強度と刺激パルス頻度の違いで知覚される感覚強度と主観的な高さ(ピッチ: pitch)がどのように変化するかが、多くの実験結果の分析により整理された。図6.1.1に示したように、まず、刺激強度と感覚強度の関係を調べた結果によると、1個の電極で伝えられるダイナミックレンジ(dynamic range)は最高でも40dB程度であり、刺激パルス頻度だけによるピッチは、最高で500Hz位である。これらは、神経インパルスの発火特性が大きく反映されたものであり、1個の電極からなる「シングルチャンネル方式」には明らかな限界がある。従って、人工内耳の多くは、ベケシーの進行波説に基づいて、音信号を周波数分析した後、電極を複数並べたアレイを介して聴神経を刺激するという「マルチチャンネル方式」をとっている。 (3)人工内耳の電極構造  ただし、マルチチャンネルといっても、当初は、図6.1.2に示したように、複数の刺激電極を蝸牛内に設置し1個のグランドを蝸牛外に設置する「単極法(mono-polar method)(図の左上)」であった。マルチチャンネル人工内耳の設計で、まず、問題になることは、蝸牛管内のリンパ液は導電性なので、そこで刺激電流が広範囲に広がるため、複数の刺激電流が重なってしまい、電極の数を増やしても情報量が増えないことである。  その後、電極を対にして一方の電極から刺激電流を流し、他方の電極でその電流を引くという「双極法(bipolar method)(図の右上))に発展していった。双極法はリンパ液内の電流の拡がりを抑えるために考案された方法である。伊福部は、1984年から1年間ほど米国スタンフォード大学のシモンズ教授のグループ研究に参画し、この電流の拡がりを調べて、同時に、そこで開発した8チャンネル単極型人工内耳を開発している。以下では、その臨床経験を述べながら、マルチチャンネル人工内耳が実用化されていく経緯を示したい。 (4)蝸牛管内における刺激電流の広がり  伊福部は、ヒトの死体から切り出した蝸牛管に電極を挿入して、それを蝸牛管の中で移動させながら電流の広がりを計測し、1個の電極から流れる電流は蝸牛管内で約6mmの範囲で広がることを明らかにしている(文献6.2.3)。  この電流分布の広がりを抑えるために、「側抑制機能」を電子回路で実現し、それを組み込んだ8チャンネル人工内耳(図6.1.3)を開発している(文献6.2.4)。ただし、この人工内耳も含めて当時の電極アレイの多くは、金属ボールを固定シリコンから1/3だけ露出するようにしたものであるので、それを蝸牛内に挿入するときに、度々ボールの位置が神経の位置からずれてしまうという問題があった。  67歳の中途失聴者(女性)のボランティアに8チャンネル人工内耳を適用し、電気刺激がどのように知覚されたかを報告している。最初は、「声には聞えなく、昔聞いた金属性の雑音のよう」との答えであったが、数週間ほどこのテストを続けていると「声のように聞こえる」と答えるようになった。これは一種の脳の「可塑化」が進んだことの現れである。  一方、1976年頃、オーストラリア大学のクラーク(Clark, G.M.)教授の研究グループが22チャンネル電極による人工内耳を開発し(文献6.2.5)、それがヌクレア社(Nucleus Limited)(後のコクレア社: Cochlea Limited)というベンチャー企業で製品化され、人工内耳研究は一つの終止符を打った。 (5)コクレア社製の人工内耳  クラーク教授らが提案した方式は、音の高低を20段階程度に分けて、蝸牛管に埋め込んだ22チャンネルの電極アレイにより聴神経を刺激するものである(文献6.2.6)。図6.1.4に示したように、22個の電極はリング状にすることによって蝸牛内での電極のずれは考えなくても良くなるという決定的な利点があった。また、消費電力を減らすため、どれか1つの刺激電極だけから電流が発生するように工夫していた。また、電極数は20個程度とあまり多くないのは、蝸牛管内における刺激電流の広がりのため、電極を増やしても情報量は変わらないことによる。電極は蝸牛管の入口にある鼓室階から約24mmまで挿入された。24mmは正常な蝸牛管内にある有毛細胞のうち600〜8000Hzに対応する位置である。  クラーク方式であるコクレア社製の人工内耳のアルゴリズムとしては、最初は、刺激パルスの頻度を音声のピッチ周波数(F0)に、第2ホルマント周波数(F2)を刺激電流が発生する電極に対応させるF0F2方式を採っていた。その後、図6.1.5に示したように、第1ホルマント周波数(F1)も抽出し、それに対応する電極を選択して刺激パルスを発生させている。ただし、摩擦音のように子音の無声部ではランダム状のパルス列が発生するように信号処理され、それを刺激としている。また、神経刺激特有のダイナミックレンジの狭さを補うために、音声信号の増幅器にはAGC(自動利得制御)がついている。  その後も、モデルチェンジが数回行われ、高域に3個の帯域通過型フィルタ(BPF)を付加したMULTIPEAK型、20個からなるプログラム可能なBPFを用いたSPEAK方式に改良されている。いずれもBPFの出力信号はスキャンニングされ、ピークの出力が電流量に変換されて平均6個の電極を介して神経刺激されるように発展している。  これらの方式をメルボルン大学病院で評価した結果、図6.1.6に示したように、日常会話文章も単語もその正答率はSPEAK方式で最も高くなっている。このことから、ホルマント周波数を抽出する信号処理は必ずしも必要でないこと、聴神経を一斉に発火させるという不自然な刺激でも音声の聞き取りが十分にできることなどが分かった。  クラーク方式はモデルチェンジを繰り返しながらも、米国のコクレア社から販売され続け、瞬く間に世界中に広まった。日本では船坂らが、1987年にコクレア社製の人工内耳を臨床で初めて採用し日本語音声の聴取能を調べている(文献6.2.7)(文献6.2.8)。その後、多くの臨床試験によりその有用性が実証され、1994年に日本でも健康保険が適用されている。 (6)その後の人工内耳と課題  一方、最近では蝸牛神経系における自然な発火パターンに近づけるために、BPFのアナログ出力をそのまま刺激電流に使う同時アナログ刺激方式(SAS方式)とか、基底膜の振動様式を考慮して刺激パルスが次々と電極アレイをスウィープするような形で順次提示する連続インターリーブドサンプラー方式(CIS方式)が、それぞれ米国のアドバンスト・バイオニックス社やオーストリアのメドエル社から製品化されている。一方、日本では北海道大学の三好(現:筑波技術大学)らがバイオニクス社製と同様の発想により、隣り合う3個の電極の中心電極から刺激電流を発生させるとともに、両側の電極で逆方向の電流を発生させて中心の電流の広がりを抑える方法を提案していた(文献6.2.9)。図6.1.7に示したように、この方法では、同時に、両側の逆方向電流のバランスを制御することにより中心の刺激電流のピークを左右に移動させることができるので、見かけ上多数の電極があるのと同じ効果が得られる。これを「3電極法」と呼び、シミュレーションとモルモットの内耳刺激による聴神経の応答からその有用性を実証していた。  その後、人工内耳を装着した患者の脳活動を検査した結果から、音声言語の認識について多くの新知見が得られてきている。例えば、装着直後は音声刺激であまり働かないとされていた前頭前野も活性化し、1年間のリハビリテーションにより通常の聴覚言語野が活性化するようになることが分かってきた。その後、東大の加我(現:東京医療研究所)らの積極的な導入により人工内耳は子供にまで適用の範囲が広がっていき、高度難聴または聾であるという確実な診断がついた場合には乳幼児でも適用されるようになった(文献6.2.10)。また、子供のときに人工内耳を適用した場合、音楽を聴いて楽しむばかりでなく、ピアノやバイオリンまでも弾けるようになった人たちも出てきている。このように言語獲得ばかりでなく、音楽を理解する脳の研究にも新しい視点を与え続けている。  さらに、最近では、音の低域にある残存聴力を保存しながら、聞こえの悪い高域音に相当する部位に人工内耳を適用する「ハイブリッド型」のものが研究・開発されている。これまでに、2016年時点では、日本で年間平均500人ほどの重度難聴の人たちが人工内耳の手術を受けて日常会話に不自由しない程度の聴力を取り戻しており、成功した感覚補綴の代表例として評価されている。1980年代の黎明期を終え、2000年代の臨床応用に向けて日本でも極めて多くの臨床例が生まれ、人工内耳を適用できる年齢や患者が特定されていき、現在に至っている。  一方では、人工内耳の恩恵を受けることができるようになった聴覚障害者とそうでない者とで差別ができるとか、聾教育で培った言語の獲得方法や手話などの第2言語という文化がなくなってしまうなど、危惧を抱く人たちも多い。技術的にできるから、また薬事法で認められたから、誰にでも適用してもよいというような簡単な問題ではないことも留意する必要があろう。  6.1.2 脳幹インプラント  一方、人工内耳も適用できない患者に対して、切除部から中枢側へ向かう残存神経に電極アレイを置いて刺激するという聴性人工脳幹インプラント(ABI :Auditory Brainstem Implant)が開発され(図6.1.8)、試験的に使用されている。蝸牛神経核は特定の周波数音に対して規則正しく並んでいるので、刺激部位と知覚されるピッチとの対応付けがしやすい。ただし、聴覚以外の神経も刺激してしまう恐れがあることから、電極数は多くても8個程度になっている。それでも人工脳幹インプラントは1979 年に初めて試みられて以来、全世界でその適用例が増えている(文献6.2.11)。ただし、人工内耳に比べると伝達できる情報量は限られていることから、読話の補助として利用されている。  このような研究の延長上として、大脳皮質の聴覚野に電極マトリクスを貼り付けダイレクトに脳神経を刺激して音声情報を伝えるという研究も再び本格化するのかも知れない。そして、将来は、バイオチップで作られたコンピュータと脳神経が接続され、失われた機能の一部を代替さらには拡張するという一種のBCI(Brain Computer Interface)の研究へと拡がる可能性がある。                           (文責 伊福部 達)      文献(6.2) (6.2.1) Ifukube, T., ”Signal Processing for cochlear implants” (Advanced in Speech Signal Processing, ed. Furui, S and Sondhi, M.M), Marcel Dekker, pp.269-305 (1991) (6.2.2) Simmons, F. B., : “Electrical stimulation of auditory nerve in man”, Arch. Otolaryngol., 84, pp.2-5 (1966) (6.2.3) Ifukube, T. and White, R. L. : “Current distribution produced inside and outside the cochlea from a scala tympani electrode array”, IEEE Trans., BME 34(11)876-882T (1987) (6.2.4) Ifukube, T. and White, R. L., : “A speech processor with lateral inhibition for an eight channel cochlear implant and its evaluation”, IEEE Trans., BME 34(11)883-890 (1987) (6.2.5) Clark, G. M. and Hollworth, R. J., “A multiple-electrode array for a cochlear implant”, J. Laryngology and Otology, 90, pp.623-627 (1976) (6.2.6) Blamey, P. J., Dowell, R. C., Clark, G. M.., “Acoustic parameters measured by aformant‐estimating speech processor for a multiple‐channel cochlear implant” J. Acoust. Soc. Am. 82: 38-47 (1987) (6.2.7) 船坂宗太郎、高橋 整、湯川久美子:“22ch人工内耳装着車の日本語聴取能”, 電子情報通信学会技術報告, pp.87-92 (1987) (6.2.8)船坂宗太郎「回復する聾 −人工内耳で聴覚は蘇るー」人間と歴史社 (1996) (6.2.9) Miyoshi, M., Shimizu, S., Matsushima, J. and Ifukube, T.,: “Proposal of a new method for narrowing and moving the stimulated region of cochlear implants: animal experiment and numerical analysis”, IEEE Trans BioMed. Eng. , 46 (4), pp. 451-460, (1999) (6.2.10) 加我君孝. 新生児聴覚スクリーニングと新たな課題-人工内耳手術の発展および聾文化の理解. 耳展; 46: pp.268-78(2003) (6.2.11) Ifukube, T., “Artificial organs: recent progress in artificial hearing and vision” J. Soc. for Artificial Organs 2009, Vol.12, pp.8-10 (2009)