視覚を代行するための聴覚の特性 産業技術総合研究所 関喜一 ※本書は、文献(関、1999-5)を一部修正したものである、 1. はじめに 視覚障害者にとって,残された感覚を活用して環境情報を把握することは日常生活を送るために必須である.特に聴覚は,周囲の物体の存在などを知る上で重要な感覚器官である. 本稿では,視覚障害者の支援に重要な,視覚を代行するための聴覚の特性について概説する. 2. 聴覚の構造 聴覚器官の構造の模式図を図1aに示す.聴覚器官は大きく,「外耳,中耳,内耳(outer ear, middle ear, inner ear)」に分けられる.外耳は「耳介(pinna)」と「外耳道(ear canal)」からなり,空気中を伝搬して耳に到来した音波は外耳を経て「鼓膜(tympanic membrane, ear drum)」を振動させる.鼓膜の裏側には空気で満たされた「鼓室(tympanic cavity)」があり,鼓膜の振動は鼓室内の耳小骨(=「ツチ骨,キヌタ骨,アブミ骨(malleus, incus, stapes)」)の連鎖によって「蝸牛(cochlea)」の内部のリンパ液へ伝えられる.蝸牛はリンパ液が満たされた螺旋状の管となっており,「基底膜(basilar membrane)」が管内部を上下に二分している.基底膜の上には「有毛細胞(hair cell)」と呼ばれる毛の生えた感覚細胞があり,リンパ液の振動によって基底膜が振動すると,毛が動いて電気信号を発生し,聴覚神経へ信号を伝える.基底膜の振動の様子は音波の周波数によって異なり(低い周波数ほど管の奥のほうに振動のピークが現われる),従って発火する有毛細胞も周波数によって異なる. 図1bに聴覚神経経路の模式図を示す.聴覚神経経路は複雑で,大脳皮質に至までに幾つかの中継点を経る.「上オリーブ核群(superior olivary complex)」は両耳の入力が比較される最初の部分である.その後,「外側絨帯核(nucleus of lateral lemniscus)」,「下丘(inferior colliculus)」,及び「内側膝状体(medial geniculate body)」を経由して「聴覚皮質(auditory cortex)」へ至る. (a) (b) 図1 聴覚の構造の模式図 (a)聴覚器官 (b)聴覚神経経路 3. 可聴範囲と音の大きさ ヒトの聴覚はすべての音波を聴取できるわけではない.可聴範囲には個人差があるが,可聴周波数は20Hz〜20kHzと考えるのが一般的である.また,可聴音の最大音圧レベル(=「最大可聴値(threshold of feeling)」はどの周波数でも約120dB SPLで,これを超えると聴覚を損傷する可能性がある.可聴音の最小音圧レベル(=「最小可聴値(threshold of audibility)」)は最大可聴値に比べて周波数依存性が高く,最も低いのは4kHz付近で約-3dB SPLである. 最小可聴値だけではなく,心理的な「音の大きさ(loudness)」も周波数依存性があり,物理的な「音圧レベル」または「音の強さ」と1対1の関係にはない.図2は1kHzの純音と同じ「音の大きさ」となる音圧レベルの周波数特性を示したもので,「音の大きさの等感曲線(または等ラウドネス曲線)(equal loudness contours)」という.もし周波数が一定なら,音圧レベルが高いほど音の大きさも大きくなる.しかし周波数が異なる場合,例えば100Hzの30dB SPLの音の大きさは1kHzの10dB SPLのそれとほぼ同じであり,一概に音圧レベルだけでは音の大きさは決まらない.音の大きさを定量的に表わす場合は,その音と同じ音の大きさを持つ1kHzの純音の音圧レベルで表わすこととし,単位はphoneを用いる(1kHzの10dB SPLの純音の大きさ=10phone).その他に,1kHzの40dB SPLの純音の音の大きさを1とする尺度もある(単位はsone). ところで,音圧レベルを「騒音計(sound level meter)」で計測する際,音の大きさの等感曲線に基づく補正により,音圧レベルを聴感上の音の大きさに近い尺度で求めることができる.その補正の周波数特性を「A特性(A-weighting characteristic)」といい,得られた音圧レベルは単位dB(A)で表わす.またこれとは別に,20μPaの代わりに最小可聴値を基準として音圧レベルを表わす方法がある.これを「感覚レベル(sensation level)」といい,単位はdB SLで表わす. 図2 音の大きさの等感曲線 (Robinson and Dadson, 1957 ※音響用語辞典より引用) 4. 音の強さ・周波数・時間の弁別能力 刺激S(物理量)に対し,弁別閾に当たる刺激増加量をΔSとしたとき,ΔS/Sが一定となるという法則を「Weberの法則(Weber's law)」という.またΔS/Sを「Weber比(Weber ratio)」という.注意しなければならないのは,一般にWeberの法則は,刺激Sが極端に小さい場合は成立しないということである.その場合のWeber比ΔS/Sは,法則が成立する場合に比べて一般に大きくなる(即ち弁別能力は悪くなる). 音の強さの弁別については,純音の場合,刺激S > 約50dB SLでWeberの法則が成立し,Weber比ΔS/S = 約0.07(1kHz)である.また白色雑音の場合もほぼ同じで,刺激S > 20dB SLでWeber比ΔS/S = 約0.1となる. 周波数の弁別については,刺激S > 約1kHzでWeberの法則が成立し,Weber比ΔS/S = 約0.002(30dB SL)である.ちなみに1.(5)で述べた歩行によるDoppler効果の周波数変化量はほぼこの値前後であって,日常生活の中では周波数変化に気付かないといえる. 時間の弁別については,刺激S > 約40msでWeberの法則がほぼ成立し,Weber比ΔS/S = 約0.2となる. 5. マスキングと臨界帯域 ある音の最小可聴値(または音の大きさ)が,他の音の存在によって上昇(または減少)する現象を「マスキング(masking)」という.例えば,会話が雑音によって聞き取りにくくなる現象がこれに相当する.この場合,雑音は「マスクする音(masker)」,会話は「マスクされる音(maskee)」となる.一般にマスキングは,マスクする音とされる音の周波数成分が隣接している(即ち周波数が近い)ほど顕著に起こる.例えば中心周波数410Hz,帯域幅90Hz,音圧レベル80dB SPLのノイズを「マスクする音」とすると,5kHzの純音が「マスクされる音」である場合は最小可聴値の上昇はほとんど0dBであるが,1kHzでは約30dB,410Hzでは60dB以上となる.さらにマスキングは,マスクする音とされる音が同時に聴取される場合だけではなく,両者が時間的に重なり合っていない場合でも起こる(これを「継時マスキング(temporal masking)」という).一般に最小可聴値の上昇は,両者の時間差が短いほど大きくなる.継時マスキングが有効な両者の時間差の範囲は約50ms以内である. ところで,離れた周波数成分を持つ音によってマスクされないなどの現象が研究されていくうちに,マスキングのメカニズムについて,聴覚機構内で可聴周波数全体にある特定の幅を持つ帯域フィルタがたくさん並んでいて,それぞれの帯域毎で処理がなされているという仮説が立てられた.このような帯域を「臨界帯域(critical band)」という.臨界帯域の帯域幅は周波数が高くなるにしたがって大きくなり,500Hz以下ではほぼ100Hz,1kHz以下ではほぼ160Hz,2kHz以上ではほぼ1/4オクターブ幅である. 6. 音源定位 ヒトの聴覚は,両耳聴取により,音源の位置を特定することができる.これを「音源定位(sound localization)」という. 両耳聴取による音感覚は通常,空間的属性(その音がどの方向のどれくらいの距離のどのくらいの大きさの領域から聞こえてくるか)を伴う.この空間的属性を重用視した聴覚心理を特に「空間音響(spatial hearing)」と呼ぶことがある.また,空間的属性を伴った音の実在感を「音像(sound image)」という.音像の定位(=位置が定まること)には通常2種類ある.1つはヘッドホンなどで音を聞いた場合に起こる「頭内定位(lateralization)」,もう1つはスピーカなどで音を聞いた場合に起こる「頭外定位(localization)」である.音源定位は一般的に後者に属する.音像が頭外定位するか頭内定位するかは,音波が音源から両耳の鼓膜に至るまでの間に,頭部や耳介,外耳道などの影響を受けるか受けないかに関係がある.この影響の特性を周波数の関数で表わしたものを「頭部伝達関数(head related transfer function; HRTF)」といい,これから説明する音源定位のメカニズムにも深く関与している. 音源定位において,音源の位置は「方向知覚(directional perception)」と「距離知覚(distance perception)」の2つによって特定される.方向知覚はさらに,左右方向を特定する「水平面定位(horizontal plane localization)」と,前後上下方向を特定する「正中面定位(median plane localization)」に分けられる.(図3) 図3 音源定位の構成要素 水平面定位は,主に両耳までの音波の到達時間差(これを「両耳間時間差(interaural time difference; ITD)」という),及び両耳で観測される音圧レベルの差(これを「両耳間レベル差(interaural level difference; ILD)」という)を方向決定の手がかりとする.ITDは音波が頭部に対し斜めや側面から入射した際の両耳までの経路長差によって生じ,ILDは主に遠い側の耳へ向かう音波が頭部による回折損失を受けることよって生じる(図4a).ITD及びILDが0の場合は,音源が正中面上にあることを意味する.図4bに頭部に対する入射角とITDの関係を示す.ITDは入射角90°(即ち真横から音波が入射)のときに最大となり,その値は約650μsである.また,図4cに頭部に対する入射角とILDの関係を示す.ILDの原因となる回折損失は周波数依存性があり,波長が頭部の大きさと同程度となる約1kHzより高い周波数で入射角によるILDの変化が見られる(低い周波数では回折損失はほとんど0なので,ILDは入射角によらずほぼ0である).ILDもITDと同様に入射角90°で最大となり,最大値は周波数が高いほど大きくなる.さてここで,図4dに,ITDによって生じる両耳の位相差(=「両耳間位相差(interaural phase difference; IPD)」)及びILDの聴覚における検知閾を示す.IPDは,周波数が低い場合は検知閾が低く検出しやすいが,1.5kH以上では検知閾が急激に上昇し,検出不能となる.逆にILDは,周波数のいかんによらず約0.5〜1.0dBくらいの検知閾を示す.以上のことを総合すると,ITDは物理的には全周波数,心理的には約1.5kHz以下の低い周波数のみ,逆にILDは物理的には高い周波数のみ,心理的には全周波数で有効ということになる.これより,水平面定位は図4eに示すように,1.5kHz以下ではITD,1.5kHz以上ではILDに依存するという考え方ができる(これを「二重説(duplex theory)」という). 図4 水平面定位のメカニズム (a)ITD,ILDが生じる理由 (b)入射角とITDの関係(Feddersen et al, 1957の模式図) (c)入射角とILDの関係(Feddersen et al, 1957の模式図) (d)IPDとILDの検知閾(Mills, 1960の模式図) (e)二重説  (※(b)〜(d)の原図は,樋渡, 1987を参照) 正中面定位は,頭部伝達関数によるスペクトルの変化を方向決定の主な手がかりとする.頭部伝達関数は,音波の到来方向によって異なるスペクトルを示す.特に正中面上の方向によるスペクトルの違いは,耳介の複雑な構造に起因するところが大きい.図5に,正中面上の音源からの頭部伝達関数の例を示す.ところで,このスペクトルの違いを利用して方向を決定するためには,方向とスペクトルの対応関係をあらかじめ習得しておかねばならず,また音源から発せられた音のスペクトルをある程度知っていなければならい.つまり,正中面定位が可能となるためには,(i)方向とスペクトルの関係,(ii)様々な音に対する熟知(familiarity)という2つの習得が必要となる.また正中面定位はその原理上,音源から発せられる音が,スペクトル全体を参照できるような広い範囲の周波数成分を持っている必要がある.もし限られた範囲の周波数成分しかない場合は正確な定位は保証されない.例えば,正中面上の純音を発する音源に対する定位は,物理的な音源方向に関係なく,純音の周波数によって音像の方向が決まってしまうことが知られている(図6)(この場合,音像が定位した方向の頭部伝達関数によるスペクトルの特徴的なピークの周波数と,音源から発せられた純音の周波数がよく一致する).概して正中面定位は,水平面定位に比べて学習に依存する割合が高く,また音の制約が多いといえる. 図5 正中面方向の頭部伝達関数の計測例(Moller, 1995の模式図) (a)前方 (b)上方 (c)後方 図6 純音による正中面定位の実験 (a)音源の配置 (b)音像の方向(Blauert, 1997の模式図) 方向知覚の分解能(どれくらい小さな角度の違いを聞き分けられるか)を「最小可聴角(minimum audible angle; MAA)」という.水平面定位のMAAは,正面方向の音源に対しては約1〜3°である.二重説におけるITDとILDが切り替わる周波数約1.5kHz付近の音に対するMAAの値は大きく,3°ほどになる(ITDとILDの両方とも手がかりとなりにくいので分解能が悪い).また水平面定位においては,正面方向の音源に対するMAAが最も小さく,側面方向に行くに従って約10°弱と大きくなる.この理由は,図4b,cにおいて,単位角度あたりのITD, ILDの変化量を見ると0°(または180°)方向が一番大きく90°方向が一番小さいことからもよくわかる.また,正中面定位におけるMAAは,広帯域雑音を音源から発した場合,4°ほどである. 距離知覚については,方向知覚のように1つのメカニズムに依存するのではなく,音場や音源の距離範囲によって幾つかの手がかりを使い分けている.自由音場においては,音源が頭部中心から約1〜3m以内に存在する場合,距離による頭部伝達関数のスペクトルの違いを手がかりとする.音源距離が約3mを超えると,距離に対するスペクトルの違いはほとんどなくなり,代わって距離による音圧レベルの減少が主な手がかりとなる.さらに約15mを超えると空気吸収によるスペクトルの変化が手がかりとなる.また,残響のある空間では,残響に対する直接音(音源から直接届く音波)の強さが距離の手がかりとなる(残響に対する直接音の強さが強いほど距離が近い).ところで,以上のメカニズムを有効に活かすためには,距離とスペクトル・音圧レベル・残響などとの関係をあらかじめ習得しておかねばならず,また音源から発せられた音のスペクトルや音圧レベルをある程度知っていなければならい.つまり,距離知覚が可能となるためには,(i)距離とスペクトル・音圧レベル・残響の関係,(ii)様々な音に対する熟知(familiarity)という2つの習得が必要となる.距離知覚は,正中面定位以上に学習に依存する割合が高いといえる. 7. カクテルパーティー効果 複数の音源が同時に存在する場合に,着目する音源の音のみを聴取(=「選択的聴取(selective listening)」)することができる聴覚の性質を「カクテルパーティー効果(cocktail party effect)」という.カクテルパーティーで大勢の人が話している中から特定の人の話しを聞くことができるという経験からこの名がある. 選択的聴取においては,両耳聴取によって目的の音源の空間的位置を他の音源から分離することにより,目的の音源の音の明瞭度が向上する.しかし,単耳聴取でも両耳聴取ほどではないが選択的聴取は可能である.このことから,カクテルパーティー効果は両耳単耳聴取に共通の高次のパターン認識によるものと考えられる. 8. 反射音の知覚(先行音効果とカラーレーション) 音源から頭部に音波が到来する際,付近に物体(例えば障壁など)が存在する場合は,物体の方向から「反射音(reflected sound)」も到来する(これに対し,音源から直接頭部に到来する音は「直接音(direct sound)」という).反射音は,経路長差/音速の時間(=「遅延時間(delay time)」)だけ直接音より遅れて頭部に到来する.(図7) 図7 直接音と反射音 反射音は,直接音と酷似した時間−音圧波形を持つので,これを聴取した場合必ずしも直接音と心理的に分離できるわけではない.一般に,遅延時間が小さい場合(経路長差が短い場合など)や,直接音に比べて反射音の音圧レベルが低い場合(障壁の反射率が低い場合など)は,反射音は直接音と分離した音像を形成しない.図8は,図左のような実験装置を用いて調べた遅延時間と音像位置の関係である(反射音の音圧レベルは一定とした).遅延時間が十分大きい場合は,反射音の音像は直接音の音像と分離した音像として知覚される(心理的に直接音と分離して知覚される反射音を「エコー(echo)」という)が,遅延時間が約30〜50ms以下になると,音像は直接音源方向にのみ生じ,反射音源側には生じない.この現象を「先行音効果(precedence effect)」という.先行音効果が成立する最大の遅延時間(即ちエコーを生じる最小の遅延時間)を「エコー検知限(echo threshold)」という.さらに遅延時間が1ms以下になると,直接音源方向に生じていた音像は,直接音と反射音の合成音像として2つの音源の間に定位する. 先行音効果の一般的性質として,直接音に対する反射音の音圧レベルが低いほど,エコー検知限は大きくなる.また先行音効果が成立している際は,反射音の音像が生じなくなるだけではなく,直接音の音像にも変化を生じる.例えば,音の大きさが大きくなったり,音像の大きさが広がったり,音色が変化したり(後述のカラーレーション参照)などである.まれに先行音効果は直接音による反射音の継時マスキングと混同される場合があるが,マスキングによってマスクされる音が検知できない場合は通常マスクする音も聴感上変化しないので,これは正しくない.継時マスキングとみなせる(即ち直接音の音像に変化がない)のは,直接音に対する反射音の音圧レベルが極端に低い場合である. 図8 遅延時間と直接音・反射音の音像の関係 また,遅延時間が短い場合,変化するのは音像だけではなく,音色も変化する.図9は,その原理を説明するものである.直接音と反射音の各周波数成分を見てみると,遅延時間ΔTの逆数の整数倍(1/ΔT, 2/ΔT, …)の周波数成分は直接音と反射音で位相が一致するので強め合うことになり,逆にそれらの中間の周波数(1.5/ΔT, 2.5/ΔT, …)は位相がπ異なるので弱め合う(図9a).この現象を「位相干渉(phase interference)」という.結果として,直接音と反射音を足し合わせた音波のスペクトルは,図9bに示すようにΔTの逆数の整数倍の周波数にピークを持つような形となる.このようなスペクトルの音は聴感上,1/ΔTの周波数に相当する音の高さ(=「ピッチ(pitch)」)を持つ.位相干渉による音色の変化現象を「カラーレーション(coloration)」という.カラーレーションは,鼓膜位置で観測される直接音と反射音の音圧レベルが等しい場合が最も顕著に起こり,音圧レベルの差が大きくなるにつれ弱くなる.また一般に遅延時間が短いほど顕著である.さらに,スペクトルの変化が参照できるような広い範囲の周波数成分を持つ音ほど顕著であり,純音では生じない. 図9 カラーレーションの原理 (a)位相干渉の原理 (b)位相干渉によるスペクトル 9. 障害物知覚 障害物知覚は,”非発音体(以下単に「物体(object)」と表記)の存在を聴覚によって知覚し定位する能力”と定義づけることができる.物体は,たとえ自分では音を発しなくても,音場の中に存在すれば,音の伝わり方を変化させる(以下これを「音場の変化」と呼ぶ).この音場の変化を聴覚によって捕えることにより物体を検出する能力が障害物知覚である. 図10に,障害物知覚のメカニズムの階層構造を示す.物体の存在によって起る音場の変化(反射や遮音などの物理現象)を「障害物知覚の物理的要因(physical factors of obstacle sense)」と呼ぶ.これによってもたらされる音場の印象の変化(音像や音質の変化などの心理現象)を「障害物知覚の心理的要因(psychological factors of obstacle sense)」と呼ぶ.障害物知覚の能力は,”物体の存在”と”心理的要因=音場の印象の変化”との対応関係を学習することにより獲得される.両者の対応関係を知っていれば,音場の印象の変化から,その原因となる物体の存在や,位置などを連想できる. 図10 障害物知覚のメカニズムの階層構造 障害物知覚は,手がかりとなる音場によって,環境音を用いる場合(図11a)と自発音(足音や白杖の音など)を用いる場合(図11b)の2種類に分類できる. 図11 障害物知覚の分類 (a) 環境音を用いる場合 (b) 自発音を用いる場合 環境音を用いる障害物知覚の物理的要因は,物体に対し聴取者と同側から到来する環境音の反射,及び反対側から到来する環境音の遮音(透過・回折損失)である.心理的要因は,(1)遮音による音像の消失 (2)先行音効果による反射音像の消失 (3)カラーレーションによる音質の変化 の3つに大きく分けられる. (a)遮音による音像の消失 物体に対し聴取者と反対側から到来する環境音は聴取者に到達する過程で透過・回折損失を受け音圧レベルが減少する.回折損失は一般に高い周波数帯域に現われる.物体から遠距離では回折損失はわずかであるが,接近するに従い回折損失は増加し音圧レベルが減少するので,音の大きさが小さくなり音像も徐々に消失するので物体の存在を知ることができる. (b)先行音効果による反射音像の消失 図12に,環境音における,反射音の遅延時間に対する音像の変化を示す.遅延時間がエコー検知限より大きい場合(即ち物体から遠距離の場合)には,反射音源方向(物体の方向)に反射音像を生じる.この状態では,物体の方向に生じている音像が,反射音像なのか,それとも物体が存在しない場合に到来する環境音の音像なのかの区別がつきにくく,一般に物体の検出にはつながらない.しかし,遅延時間がエコー検知限より小さい場合,先行音効果により反射音像は消失する(上記(a)と総合すると,物体の接近に伴い,物体方向から如何なる音像も消失することになる(図13)).さらに遅延時間が小さくなると,直接音源方向に生じていた音像が頭部に接近する.このような反射音像の消失,及び合成音像の移動により,物体の存在,及びその距離を知ることができる.なお音像の消失に伴い,”圧迫感(かつてこれが「皮膚感覚説」のもとになった)”を反射音源方向の顔表面に生じることがある. 図12 環境音における,反射音の遅延時間に対する音像の変化 (c)カラーレーションによる音質の変化 直接音と反射音は位相干渉を起し,カラーレーションを生じる.カラーレーションにより生じたピッチは,遅延時間及び距離と反比例し,1対1の対応関係にあるため,物体の距離を知る手がかりとなりうる(図 13).ただしカラーレーションは,環境音の周波数帯域が狭いと生じにくくなるため,上記(1)(2)に比べると実環境中での聴取は難しい場合がある. なお,先行音効果による音像の変化とカラーレーションによる音質の変化には方向依存性があり,音像の変化は主に頭部側面方向,音質の変化は主に頭部正面方向の物体に対する心理的要因となる.ただし,カラーレーションは実環境では生じにくい場合があるため,一般に頭部正面の物体は検出しずらい場合が多い. 図13 カラーレーションによる音の高さと距離の関係 自発音を用いる障害物知覚の物理的要因は,自発音の反射である.図14に心理的要因を示す.物体反射面から約6(〜15m)以上離れている場合には,反射音は直接音と分離した音像として知覚される.この距離では,反射音の音像の位置を手がかりに反射面の位置を知ることができる.距離が短い場合には,先行音効果により,反射音像は消失する.そのかわりに,「Thurlowピッチ(Thurlow pitch)(2つのパルス音の時間差の逆数のピッチを生じる現象,Thurlow(1955, 1957))」によって,直接音のピッチの上昇を知覚することがある.ピッチは反射面との距離が短くなるにつれ高くなるので,反射面との距離を知る手がかりとなる. 図14 自発音を用いる場合の障害物知覚 10. 加齢による変化,及び晴眼と視覚障害の差 聴覚器の老化による聴力の衰えを「老人性難聴(presbycusis)」という.聴力の衰えは厳密には30才代から始まり,多くの場合高い周波数に顕著に見られる(図15).また加齢に伴う聴覚機能の衰えは聴力だけではなく,周波数,時間,空間の情報を処理する能力にも見られる. 一方,視覚障害が聴覚に与える影響については様々な議論があり,考察が一貫していない.Ashmeadら(1998)によると,視覚障害者の空間音響については2つのモデルが提唱されている.1つは視覚経験の少ない早期失明者は晴眼者に比べて音源定位能力が劣るとする「欠陥モデル(deficit model)」,もう1つは,視覚を失ったことによりむしろ晴眼者より優れているという「補償モデル(compensation model)」である.前者は音源定位獲得のための学習過程における視覚フィードバックの重要性を根拠としており,後者は視覚以外の感覚が視覚障害を補うという仮定に基づいている.概して現在までの研究結果を見る限り,どちらか一方だけを積極的に支持するべきであるとする根拠はない.実験結果の中には,視覚障害児・者(特に先天盲)の音源定位能力が若干優れていることを示しているものもある(例えばLessardら, 1998)が,そのメカニズムは十分明らかではない.現時点の知見では,視覚障害者の音源定位能力は晴眼者のそれとほぼ同レベルと考えるのが無難である. 図15 年齢と聴力レベルの関係の模式図(原図は音響用語辞典の老人性難聴参照) 11. おわりに 本稿では,視覚を代行するための聴覚の特性について概説した.本稿が,視覚障害者の支援技術の研究開発を行う上で基本的な知識として貢献することを期待したい. 参考文献: Blauert J : Spatial Hearing, revised edition. The MIT Press, Cambridge, 1997. Blauert J,森本政之,後藤敏幸:空間音響.鹿島出版会,東京,1986. 樋渡涓二(編):視聴覚情報概論.昭晃堂,東京,1987. 伊福部達:音の福祉工学.コロナ社,東京,1997. Lessard N, Pare M, Lepore F, Lassonde M : Early-blind human subjects localize sound sources better than sighted subjects. Nature 395 : 278-280, 1998. Moller H, Sorensen MF, Hammershoi D, Jensen CB : Head-related transfer functions of human subjects. J. Audio Eng. Soc. 43 : 300-321, 1995. Moore BCJ (ed) : Hearing. Academic Press, San Diego, 1995. 永田邦一:電子音響工学.朝倉書店,東京,1987. 日本音響学会(編):音響用語辞典.コロナ社,東京,1988. Pickles JO:聴覚生理学.二瓶社,大阪,1995. 境久雄,中山剛:聴覚と音響心理.コロナ社,東京,1978. Schmidt RF:感覚生理学.金芳堂,京都,1980. 関喜一、”聴覚による障害物知覚と環境認知”、岩崎テル子(選) セラピストのための基礎研究論文集(2) 生存と自己表現のための知覚 第2部 第5章、pp. 237-273 (協同医書、東京、1999-5).