2.2 聴覚障害とは  難聴と一口にいっても、障害の部位、レベル、特性などによって実に多様な症状を呈する。聴覚障害は聴覚の起源と進化に大きく関わっていることから、その関わり方を述べる。 1.聴覚器官の原理と難聴 (1)音の周波数分析機構  図2.2.1に示したように、外耳道を通って鼓膜に到達した音は、中耳にある3個の耳小骨を経て、内耳の蝸牛(カタツムリ管: Cochlea)に伝えられる。そして蝸牛に入った音によりその中にある「基底膜:Basilar membrane」と呼ばれる薄くて細長い膜(35mm)が振動し、その振動を基底膜の上にある聴覚受容器の有毛細胞が検知する。基底膜の振動様式には諸説あったが、電気通信分野の技師であったベケシー(G. von Bekesy, 1899−1972)は、ゾウの死体からヒトより遥かに大きい内耳の蝸牛を取り出し、基底膜の振動分布を計測した(文献2.2.1)。その結果から、図2.2.2に示したように、音が振動となって蝸牛に入ると、音の高さにより最も大きく振動する場所が変ることを見出した。高い音がくると膜の手前の方が、低い音がくると奥の方が、大きく振動すること、同時に、基底膜は非常に広い範囲で振動することを明らかにした。  壁の一端に長い紐を結んで他端を手で振ると、紐は波打って壁の方に向かって消えていくが、この波を「進行波: Traveling wave」と呼ぶ。基底膜の振動様式は進行波と同様であることから、ベケシーの説は「進行波説」と呼ばれる。この仮説は、その後、生きているヒトの蝸牛に弱い音(30dB以下)を与えた場合には成り立たないことが分かるのであるが、ベケシーの基本的な考え方は未だに生き続けている。 (2)進化と聴覚障害  聴覚センサの起源は魚の横腹の表面に付いている「側線器: Lateral organs」であるといわれている。側線器には毛の生えた細胞、すなわち「有毛細胞」が多数配列されている。有毛細胞の毛がたわむと有毛細胞膜の電位が上昇し、細胞膜から放出された伝達物質により、有毛細胞につながる神経でインパルスが発生する。  魚が餌を広く求めて陸上で生活するように進化したときには、有毛細胞を基底膜という薄い膜の上に配列し、蝸牛管の中を海水と同じ成分であるリンパ液で満たし、海を後にしたと考えられる。また、中耳は、3つの耳小骨(ツチ、キヌタ、アブミ)からなり、キヌタ骨を支点とする一種のテコの原理が働き、振幅の大きい空気振動を、振幅は小さいが力のある振動に変換して蝸牛内のリンパ液に伝えている。同時に、広い面積を持つ鼓膜の振動をツチ骨で捉え、それを面積は狭いが力のある振動として蝸牛の入り口のアブミ骨に伝えている。 この2つの機械的インピーダンスマッチングにより、効率よく空気振動でリンパ液を動かし、基底膜を振動させることができるようになった。やっと音として知覚されるときの音のエネルギーで基底膜がどのくらい振動するのかを換算すると、その振幅は水素原子核の直径ほどの大きさになる。この微弱な振動を有毛細胞が検知していることから、恐らく生物が極限まで達して獲得した最も感度の良い振動センサといえる。このように中耳の機構が複雑かつ精緻になったことから、音を振動で伝える部位に障害が生じ、「伝音性難聴」と呼ばれる聴覚障害に陥いるのである。  なお、ヒトの蝸牛には16,000個の有毛細胞があるが、それらは「外有毛細胞(OHC: Outer Hair Cells)」と3500個位の「内有毛細胞(IHC: Inner Hair Cells)」に2分される。蝸牛管を輪切りにしてみると、管を2等分するような位置に基底膜があり、その上に有毛細胞を固定する「コルチ器: Corti organs」がある(図2.2.3の上)。コルチ器の外側に3列に配列しているのがOHCであり、内側に1列に配列しているのがIHCである。OHCの毛はコルチ器を支えている蓋に接触するが、IHCの毛はどこにも接触しない。音が蝸牛に入り基底膜が振動すると、蓋に接触するOHCが自ら振動し、それによりIHCも振動し始めてIHCの膜電位が上昇し、それに繋がる神経が発火する(図2.2.3の下)。そして、そのインパルスは色々な中継所を経て中枢に伝達される。  有毛細胞のメカニズムは、このように一見複雑にみえるが、弱い音(30dB以下)に対しては聴覚受容器の感度と周波数分解能が著しく高められる。さらに全ての有毛細胞は遠心性神経からのフィードバックを受けるので、感度だけでなくダイナミックレンジも広くなっている。 2.難聴の種類と補聴方式 (1)難聴の分類 ①オージオグラム  聴力の検査の結果は、オージオグラム(audiogram)と呼ばれる一定の形式のグラフで表される。現在使用されているものは、横軸に周波数を対数目盛でとり、縦軸に聴力レベルをdB目盛で表示するものである。直接ヘッドホンを通じて与えて求めた音の閾値を気導聴力レベル(air-conduction hearing level)といい、その点を結んでできた曲線を気導オージオグラム曲線(air-conduction audiogram curve)という。この曲線が0dB線から下方に遠ざかれば遠ざかるほど、難聴の程度が高いことになる。正常の限界は一般的には10dB(JIS基準値)とみなされているが、正常、異常の判定は単に記録されたdB値によるだけでなく、被験者の年齢、検査状況、自覚症状などを考慮した上で弾力的になされる。    (2)加齢と難聴  ところで、高音に応答する蝸牛管の入口付近の有毛細胞はいつも振動刺激を受け取るので劣化が早くなる。図2.2.4に「気導オーディオグラム」の例を示したように、加齢とともに漸進的に高音の聞き取りが悪くなり、高齢者の多くは「感音性難聴」に陥る。図中に示したように、感音性難聴のうち、内耳性難聴は障害が蝸牛に局限している場合で、後迷路性難聴は障害部位が主として蝸牛神経で、ときには中枢部位にある難聴の場合を指す。中枢性難聴とか皮質性難聴という用語も使われることがあり、それぞれの聴覚中枢路や大脳皮質の病変によるものを指す。しかしこの部位の障害は通常の概念による難聴とは異なっており、むしろ聴覚異常というべきである。  一方、骨導受話器を耳の裏の乳頭部という所に当てて、直接蝸牛に振動を加え、その時の周波数と振動レベルの関係を求めたのを「骨導オーディオグラム」という。気導オーディオグラムで難聴と診断され、骨導オーディオグラムが正常な場合は、中耳などの伝音系に障害がある「伝音性難聴」となる。このように骨導オーディオグラムは難聴が感音性か伝音性かを判定するのに利用される。  ヒトの感覚や発話に関するコミュニケーション器官は初めから現在の構造や機能を備えていたのではなく、長い年月をかけて環境に適応しながら進化してきている。進化のお陰で構造や機能が複雑かつ精緻になってきたが、加齢による難聴は進化の過程を漸進的に逆戻した結果と考えることができる。    ②「難聴(聴覚障害)の程度分類」  気導聴力の大体の傾向をつかみ、社会適応能力との関連をつけるために、1つのdB値でその被験耳の聴力を表現することがある。これを平均聴力レベルといい、難聴の分類に利用されている。平均聴力レベルとしては、500 Hz、1000 Hz、2000 Hzの聴力レベルをそれぞれ a、b、c とし、(a+b+c)/3 を平均聴力レベルとする3分法が使われていた。国際的には4000Hz の聴力レベルも加えた4分法が多く、また音声の聞き取りを重視するという観点から、現在では4分法が推奨されている。  4分法による平均聴力レベルに従って、以下のように分類され、それぞれの聞き取りの程度が示されている。 ○軽度難聴(mild hearing loss):    25 dB 〜 40dB  小さな声や騒音下での会話の聞き間違いや聞き取り困難を自覚する。 ○中等度難聴(moderate hearing loss): 40 dB 〜 70dB  普通の大きさの声の会話の聞き間違いや聞き取り困難を自覚する。 ○高度難聴(severe hearing loss):   70 dB〜90dB  非常に大きい声か補聴器を用いないと会話が聞こえないか、会話を聞き取れない。 ○重度難聴(profound hearing loss):  90 dB 以上  補聴器でも、聞き取れないことが多く、人工内耳の装用が考慮される。  また、我が国では、65歳以上の40%が加齢による難聴(「日医ニュース」日本医師会、2010年)と報告されており、「65歳以上の人口は2020年で3600万人」と推定されているので、高齢の難聴者だけでも約1440万人となり、さらに「軽度の難聴予備軍」を含めると2000万人以上になると想像されている。  なお、聴覚障害者のコミュニケーション手段(「身体障害児・者実態調査」(厚生労働、2016年)は、難聴の程度に依存するが、補聴器:69.2%、筆談・要約筆記:30.2%、手話・手話通訳:18.9%、読話:9.5%、その他:6.8%、不詳:5.9%となっている。難聴支援における補聴器の割合が非常に高いと言える。 (2)補聴器の種類と役割  ただし、補聴器をつければ眼鏡をかけた時のように普通に聞こえるようなるかというと、そう簡単なものではない。眼鏡は光学系の変形を補償するものであるから、難聴の場合、眼鏡をかけることは耳介を大きくすることに対応しており、単に音量を増やすのに相当する。ところが、難聴は音響系の劣化ばかりでなく、内耳や中枢など未知の部分に障害がある場合が多く、音圧を増幅するだけの補聴器では必ずしも満足のいくものにならない。  気導オージオグラムの曲線の形は図2.2.5に示すように色々なパターンがあり、 これらをいくつかの曲線形に整理したものを聴力形と呼ぶ。これらの聴力形は症例の聴力の状態を簡単に表現するのに便利なだけでなく、デジタル補聴器の設計にも活かされる。 ① デジタル補聴器  現在、最も普及している支援方式は、聴力形の逆周波数特性を持つフィルタとアンプで増幅するコンピュータ内蔵型の「デジタル補聴器」である(文献2.2.2)。一般的には、100Hz〜10kHzの可聴範囲の音を4〜10帯域に分割し、利用者の聴力型に合わせて増幅率を設定している(図2.2.6)。 近年、耳掛け型も耳穴挿入型も外見上は人に気が付かないほど小型になっている。しかも、ハウリング防止、雑音軽減、指向性制御など色々な機能を備えてきており、PCでそれらの機能を調整できるようになっている。最近では、スマートフォンとブルーツースで繋げて音楽を楽しんだり、翻訳機能を使えたりして、補聴器の概念を大きく変えつつある。 ② リクルートメントとその補償  加齢による感音性難聴の特徴の一つは、「リクルートメント現象」(図2.2.7左)が大きくなることである。これは弱い音は聞こえないのに、ある強さから急に大きく聞こえ出す現象である。したがって、音声のように弱い音と強い音が混在している場合に、とくに聞きづらくなる。そのため、語音の強度を大きくしながら正答率の関係を求める語音明瞭度 (Speech Audiogram)検査を行うと、検査音を大きくしても改善しなかったり、かえって悪くなったりする場合がでてくる(図2.2.7の右)。デジタル補聴器では、リクルートメントや語音弁別能の低下を補償する機能も付いており、最近では中程度の難聴の場合には日常生活に困らないほどになっている。ただし、感音性難聴の中でも「老人性難聴」と診断されたものは、単に聴覚末梢系の機能低下だけでなく、中枢における短期記憶能力や言語処理能力の衰えにも関係している可能性があるので、別のアプローチをとる必要が出てくる。 ③ 音声を「ゆっくり」、「はっきり」にする補聴装置  NHK放送文化研究所の調査によると、放送への苦情は高齢者が圧倒的に多く(約80%)、その理由の一つは「話す声が速すぎる」とのことである。日立製作所の禰寝らは、高齢者に聞きやすくするための「ゆっくり」にする機能を持ったデジタル補聴装置を開発し、「イージーリスナー」という名前で1994年に製品化したことがある(図2.2.8の左)(文献2.2.3)。  本補聴装置では、時間領域においてピッチ単位の波形加工が施され、ピッチを変えることなく時間的な伸長がなされる。ピッチ単位で音声波形を伸長する方式としては、情報圧縮用に開発されたTDHS (time domein harmonic scaling)がよく知られている。本処理はこのTDHSを改良した方式の一つであり、3種類の伸長率e = 1.50(2⇒3 ピッチ)、e = 1.33(3⇒4ピッチ)、e = 1.25(4 ⇒5ピッチ)が得られる(図2.2.8の右)。  老人性難聴と診断された10人の高齢者に協力してもらい、4単語からなる無意味な文章の聞き取り試験を行ったところ、聴覚時間分解能の劣る者ほど「ゆっくり」聴かせると誤り率が減少することが分かっている(図2.2.9の左)。また、人工内耳装着者5名に話速変換方式が有効かどうか調べたところ、2名については話速を遅くするほど音声の聞き取りの誤りが顕著に減少した(図2.2.9の右)。  その後、NHK技術研究所の今井らが中心となって、話速変換技術は声を「ゆっくり」にして聞くラジオに活かされ、外国語の聞き取り訓練のための装置、あるいは発語失行症患者のためのリハビリ機器など色々な機器に導入されていった。言語機能障害の1つであるウェルニケ失語のリハビリにも効果が期待される。  一方、「はっきり」と話した音声を分析してみると、抑揚が強調されている場合が多い。抑揚のような韻律情報は音声の知覚において重要な役割を果たしている。実際、日本語には、同じ読みでも抑揚の違いだけで異なった意味になる単語(例えば、「雨」と「飴」)が極めて多い。陸らは、抑揚すなわち「四声」が決定的な役割をする中国語音声を用い、四声を強調することにより感音性難聴者の音声認識精度が上がることを示している(文献2.2.4)。実験では、日本語では/ma/と読むが、四声により意味が変わる4つの漢字「女馬(1声)」、「麻(2声)」、「馬(3声)」、「罵(4声)」(図2.2.10の上)を取り上げ、その抑揚を強調した音声を作成した。すなわち、それぞれのピッチ(F0)パターンの平均値を求め、F0new (t)=C×[F0orig(t)- F0mean]+ F0mean に従って、F0パターンを強調したり、弱めたりした。ここで、Cは強調率で、Cが1より大きければ抑揚強調、小さければ抑揚抑制になる(図2.2.10の下)。作成した音声を、中国語を母国語とする12人の難聴者について調べ結果、図2.2.11に示したように、認識率は抑揚を強調するに従い上昇し、しかも難聴が中度(平均聴力損失約60dB)よりも重度6名(平均聴力損失約80dB)の方が強調の効果が大きいことが分かった。日本語音声でも同様の結果が得られているので、「はっきり」と聞かせる方式は、感音性難聴者のためのデジタル補聴方式の1つとし有効であろう。   (文責 伊福部 達) 文献(2.2) (2.2.1) Bekesy, G., “Sensory Inhibition”, Princeton University Press. (1967) (2.2.2) Levitt H (1987) Digital hearing aids: A tutorial review, J Rehabil Res Dev 24(4): pp.7-20. (2.2.3) Nejime Y, Aritsuka T, Imamura T, Ifukube T, Matsushima J (1994) A portable digital speech-rate converter and its evaluation by hearing-impaired listeners: 1994 Inter. Conf. on Spoken Language Procession (ICSLP94), 32(29): pp. 2055-2058. (2.2.4) Lu J, Uemi N, Li G and Ifukube T (2001) Tone enhancement in Mandarin speech for listeners with hearing impairment. IEICE Transactions on Information and Systems, E84-D(5): pp.651-661.